#3 株式会社堀場製作所 代表取締役会長兼グループCEO 堀場 厚さん〈前編〉
“本棚に飾っている本を見ると 必死で学んだ日々が心に蘇る”
京都を代表する企業の株式会社堀場製作所。研究開発型企業として「はかる」技術を磨き、応用発展させ、「エネルギー・環境」「バイオ・ヘルスケア」「先端材料・半導体」という3つのフィールドで社会に大きく貢献しています。代表取締役会長兼グループCEOの堀場厚さんに、図書館や本にまつわる思い出<前編>、人を育む大切さ、これからの医療人に期待すること<後編>などをお話しいただきました。
株式会社堀場製作所 代表取締役会長兼グループCEO
堀場厚(ほりば・あつし)
1948年生まれ。71年、甲南大学理学部卒業後、渡米しオルソン・ホリバ社に入社。製品の海外オペレーションに従事。カリフォルニア大学大学院工学部電子工学科修了。77年に帰国し、堀場製作所海外技術部長に就任。92年、代表取締役社長就任。現在、代表取締役会長兼グループCEO。世界29の国と地域に分析・計測システムを中心とした様々なソリューションを提供。著書に「難しい。だから挑戦しよう」(PHP研究所)、「京都の企業はなぜ独創的で業績がいいのか」(講談社)。
ー京都府立医科大学との関わりは?
創業者である父は、弊社の事業をスタートした後に京都府立医科大学で血液分析について研究し、1961年に医学博士の学位を取得しました。会社を経営しながら、通学ではなく論文博士という形でした。父は、起業前は京都帝國大学(現・京都大学)理学部に入学し、原子核物理の研究をしていましたが、第二次世界大戦の敗戦で、研究を続けることが叶わなかったため3回生の時に「堀場無線研究所」を創業。研究資金と生活費のために開発したのが、国産初のガラス電極式pHメーターでした。化学肥料の製造工程に必要なpHメーターの需要が伸び、会社は飛躍的に成長しました。技術研究や開発のためには、優れた研究者を採用したい、しかし企業に所属すると学位が取れないと敬遠されないよう、自ら率先して学位を取得したそうです。また、2009年にフランスのベンチャー企業を買収する際にも、京都府立医科大学のサポートを受けましたし、現在も様々な形での交流を継続いただいています。
ー図書館にまつわる思い出は?
当時、私は北大路新町にあった京都教育大学附属小学校に通っていました。図書館で見つけた森鷗外の『山椒大夫』『高瀬舟』などを読んだことを、今でも覚えています。また、雑誌『模型とラジオ』に夢中になり、毎号本屋で買うようになりました。鉄道模型やラジコン技術など、我々の時代は本から情報を得るのが当たり前でしたから、毎号とても楽しみでしたね。本や雑誌を読む時間もたくさんあり、その頃の自分のことを羨ましく思います。図書館はすごく大事な場所で、本という紙の文化も継承していかなくてはいけないと感じています。例えば、タブレットなどモバイル端末だと自分の興味のあるものしか見ないので情報のバランスが取れない。図書館や本屋に行くと、自分の興味のあるものはもちろん、それ以外の本も手に取ってパラパラっと見ることができ、情報のバランスも取れ、視野も広がります。デジタルとアナログのバランスも大事。情報量はインターネットなどの電子情報が圧倒的ですから、何かを調べる時には私もタブレットを使います。これほど簡単に自分の知識不足を補ってくれるものは他にないでしょう。本で調べるとなると莫大な時間がかかります。何に対しても同様ですが、要するに使い方が大切なのです。車も便利ですが、使い方を間違えれば凶器になる。そういう両面性を知っていることがとても大事だと思います。
ー“私を変えた1冊”は?
アメリカ留学時の教科書です。大学を卒業してすぐに「アメリカに行きたい」と父に言いました。ちょうどHORIBAが米国に合弁会社を設立するタイミングでもあり、現地でサービスエンジニアとして仕事をスタートした後にカリフォルニア大学工学部電気工学科に留学しました。大学ではエンジニアリングの各授業が週2~3回あり、1回の授業で20ページくらい進むんです。教科書をしっかり理解しながらも速読が求められ、とにかく必死で勉強しました。その時の教科書は今でも本棚に飾っています。毎日、手に持っていたものですから、卒業証書とは違う重みがあり、見るたびに当時の気持ちが蘇ります。その時の苦しみと、これを超えてきたんだという努力の証明のようなもので、自分の歴史や生きざまですよね。そして、アメリカでは「何に、どのくらいチャレンジしているか」が人の価値に繋がっていきます。知識も必要ですが、いかにクリエイティブで尖ったものを持っているかが勝負。私達がフランスでもアメリカでも特別なポジションに置いてもらっているのは、そういう場面にも対応できる感覚や視野があるからだと思います。そういう意味でもアメリカ留学は、私の人生を大きく変えたターニングポイントでした。