#20 京都大学 人と社会の未来研究院 副研究院長・教授 熊谷誠慈さん〈後編〉

“研究や開発に欠かせない 図書館は知の宝庫である”

浄土真宗の僧侶、仏教学を専門とする研究者、京都大学 人と社会の未来研究院 副研究院長・教授でもある熊谷誠慈さん。仏教最古の経典を機械学習させた仏教対話AI「ブッダボット」の開発、心をサポートする最新のテクノロジーの研究など、心の安らぎと活力に満ちた社会の実現を目指す取り組みを推進しておられます。「ブッダボット」開発の経緯や仕組み、テクノロジーが現代人に果たす役割(前編)、私を変えた一冊、本や図書館の存在、未知の領域に挑戦する人々へのメッセージ(後編)などをお話しいただきました。


熊谷誠慈(くまがい・せいじ)

1980年広島生まれ。京都大学人と社会の未来研究院副研究院長・教授。専門は仏教学(インド・チベット・ブータン)およびボン教(ヒマラヤの土着宗教)研究。2021年に、仏教最古の経典『スッタニパータ』を機械学習させた仏教対話AI「ブッダボット」を開発。実業家の古屋俊和氏と株式会社テラバースを共同創業し、伝統知とAI等を融合した「伝統知テック」の開発と社会実装を進めている。また、内閣府ムーンショット(目標9)のプログラムディレクターとして、こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現することを目指し、「こころテック」(こころの状態把握技術やこころの状態遷移技術)の研究開発を推進している。


ー“私を変えた一冊”は?

インドの仏教思想家・龍樹の著書『廻諍論』(えじょうろん, Vigrahavyāvartanī)です。大学3年の時に、卒業論文のテーマを決める前にこれを読み、まさに目から鱗が落ちました。龍樹は「色即是空」の「空(くう)」の思想を理論化し、大乗仏教の理論体系の基礎を構築したことで知られる人物。「諍」は論争の意、『廻諍論』とは「論争を超越し回避する論書」です。「空」に関する解説をしていますが、その論証方法が非常識極まりないんです。論争相手に「あなたの言葉は〝空〟であるから実体がない、だから、非実体的なあなたの言葉で私の主張を否定することはできない」と言うと、相手も「ならば、あなたの言葉も非実体的で〝空〟ではないか」と。すると、龍樹は「私の言葉も〝空〟である、だから私が〝空〟と言っていることが立証された」と言うんです。普通は「私が正しい、あなたが間違っている」と論争し、どちらが正しいかで決着します。しかし、龍樹は「両方間違っているのでいいじゃないか」と。屁理屈の極みですが、論争としては最強で、彼の理論とは一体何なんだと興味が湧き、研究を進めることになりました。『廻諍論』を読まなかったら、研究者になることはなかったと思います。研究のきっかけを与えてくれた一冊です。もう一冊〝私を変えてほしい一冊〟がありまして。『正信念仏偈』という、親鸞の主著『教行信証』に所収されている宗教詩です。親鸞の教えのエッセンスが詰まっており、浄土真宗の門徒は日々読経しています。私は物心ついた時から、漢字も意味もわからず発音で覚え、唱えていました。仏教学を研究して、翻訳はできるようになりましたが、本当の意味を理解することが難しく、自分の行動や思考と合致する状況にはなりません。多分、死ぬまで、これを理解し実践できるようにチャレンジし続けるでしょう。できれば死ぬまでに〝人生をかけて私を変えてくれた一冊〟と言えるようになればと思っています。

ー本や図書館はどんな存在?

私にとって図書館は、研究や開発のために欠かせない存在です。文献研究は図書館がなければできません。本も図書館も、私の研究におけるターゲットであり、目標が詰まっている、ゴールが埋まっている知の宝庫といえます。そして、その宝を得るための、武器が転がっている。要するにゴールと手段の両方が入っている宝の場所です。文献を通じて、仏教を紐解く、伝統的な仏教学の研究を行う上では必須。本と図書館だけで研究が完結してしまうほどです。私が学生だった頃は、海外の図書館に行かないと手に入らない書もあり、貴重な書のコピーを持っている人がいれば、さらに複製でコピーさせてもらっていました。デジタル化が進んだことで、私自身は建物としての図書館にはあまり行かなくなりましたが、デジタルテキストアーカイブを広義の図書館と呼ぶのであれば、毎日図書館に行っているともいえるでしょう。私のみならず、多くの人々に可能性を与えてきたことと思います。ルーツとしての物質がなければ、デジタルアーカイブも生まれてこなかったので、本や図書館が物理的に存在してきたことは、人類の文化、文明思想、文化などにおいて極めて大きな意義があったと思います。

ー図書館の思い出は?

私が学んでいた京都大学の仏教学講座には世界的な権威の先生がいらっしゃって、貴重な書籍をたくさん収集して下さいました。大学院の研究室にある書架には、図書館並みに必要な本が揃っていました。嬉しいことに、私は特例で学部の3年生からその研究室を使わせていただけることになり、そこが私にとっての図書館のようなものでした。入室IDも付与され、いつでも使えるということで、毎日明け方まで家に帰らず、誰もいない研究室で、夢中で本を読み、調べ物をして、足りない資料があれば翌朝9時以降に文学部の図書館へ行く。こうして研究に集中できたことは、非常にラッキーでした。

未知の領域や新しい分野に挑戦している人へのメッセージをお願いします。

未知の領域や新しい分野を開拓するのは、とても困難で孤独です。みんなで一緒にやればできることも、一人だと孤独で、心が折れやすく、諦めてしまう。誰もやったことがないからやり方もわからない。わからないこと、先の見えない道を進んでいくのは不安でストレスも溜まることでしょう。でも、ただ一つ言えるのは、その壁を突破して新しい景色を見た時の充実感や感動は、それを乗り越えた人にしか得られません。誰にもわかってもらえない孤独は非常に苦しいものですが、誰にもわかってもらえない感動、自分だけしか味わえない感動は、ある意味、何物にも勝る感動でもあります。そういう感動は、第一には自分自身のためということになります。しかし、それだけではもったいない。自分が開拓したものを、これまで多くの人が得られなかった利益として分配できる、届けられる可能性があります。孤独と不安の先には、感動する未来が待っていて、それは人々を幸せにできる。確証はありませんが、そう信じて一緒に挑戦していけると嬉しいですね。

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