#19 京都大学 人と社会の未来研究院 副研究院長・教授 熊谷誠慈さん〈前編〉

“こころ・伝統知をテクノロジーと融合し 幸せになれるチャンスを創出する”

浄土真宗の僧侶、仏教学を専門とする研究者、京都大学 人と社会の未来研究院 副研究院長・教授でもある熊谷誠慈さん。仏教最古の経典を機械学習させた仏教対話AI「ブッダボット」の開発、心をサポートする最新のテクノロジーの研究など、心の安らぎと活力に満ちた社会の実現を目指す取り組みを推進しておられます。「ブッダボット」開発の経緯や仕組み、テクノロジーが現代人に果たす役割(前編)、私を変えた一冊、本や図書館の存在、未知の領域に挑戦する人々へのメッセージ(後編)などをお話しいただきました。


熊谷誠慈(くまがい・せいじ)

1980年広島生まれ。京都大学人と社会の未来研究院副研究院長・教授。専門は仏教学(インド・チベット・ブータン)およびボン教(ヒマラヤの土着宗教)研究。2021年に、仏教最古の経典『スッタニパータ』を機械学習させた仏教対話AI「ブッダボット」を開発。実業家の古屋俊和氏と株式会社テラバースを共同創業し、伝統知とAI等を融合した「伝統知テック」の開発と社会実装を進めている。また、内閣府ムーンショット(目標9)のプログラムディレクターとして、こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現することを目指し、「こころテック」(こころの状態把握技術やこころの状態遷移技術)の研究開発を推進している。


ー仏教対話AI「ブッダボット」開発の経緯は?

2014年頃、京都・東山の青蓮院門跡執事長である東伏見光晋氏から「日本の仏教は衰退傾向にあり、将来お寺はどうなるのかと若い僧侶たちが不安を抱いています。どうすれば回復できるでしょう」という相談がありました。以後、東伏見さんと一緒に色々なアイデアを出し合う中で「AI(人工知能)と仏教で何かできないだろうか」という話になりました。先端技術と古代の知を融合させるなんてできない、やってはいけない、誰もやらないだろうと。しかし、私は誰もやらないことをやりたいというタイプで、誰もやらないならぜひやってみようということになりました。我々にはAIの知識がなかったため、AIエンジニアの古屋俊和氏にも加わってもらい、2019年から開発をスタート。古屋氏にブッダや仏教について説明したところ「ブッダと弟子の対話のアーカイブが経典なんですね。じゃあ経典からブッダと弟子の発言を抽出して、データセットとして提供いただければチャットボットが作れます」との提案をいただき、私がデータセット、古屋氏がプログラムコードを制作することになりました。

伝統知である仏教と最新のテクノロジーを融合

ーデータセットとなる経典はどのように決めたのですか?

最初は、日本仏教になじみの深い経典で検討しました。例えば、浄土真宗開祖・親鸞が書いた『正信偈』を学習させたAIで対話すると「リストラされそうです、どうすればいいですか?」という質問に対して「仕事から解放されて、たくさん念仏が唱えられます、よかったですね」といった答えが出てくる可能性が想定されました。仏教徒(念仏者)としては仏道に専念できることは幸せな生き方の一つであるかもしれませんが、現代社会においては、仕事を失うことを不幸と感じる人が大多数ではないかと思います。これではなかなか一般には理解が得られないだろうということで、『般若心経』を学習させてみることも考えました。その場合、同じ質問をすると「仕事というものは〝空(くう)〟(非実体的なもの)であり、実体として存在しない。実体として存在しないものがなくなっても困りませんよね」といった哲学的な答えが返ってくる可能性が想定されました。どちらの場合も、現在の世俗の感覚とは大きくかけ離れた形而上学的、純粋宗教的な回答になってしまうのではないかと。そこで、私たちの日常生活に寄り添う答えを求めて考えると、古い経典ほど生身の人間に近づいていくんですね。仏教最古の経典『スッタニパータ』には、「嘘をついてはいけません」「お酒を飲んではいけません」など、日常生活にかなり近い内容が記されていることから、原始経典を機械学習用のデータセットとすることに決めました。

ー「ブッダボット」の仕組みは?

経典の日本語訳からQ&A形式でリストを作成し、質問に対して言語ベクトル的に関係性の近いブッダの言葉を出力するというのが2021年に開発した旧式のブッダボットの構造です。旧式ブッダボットは非生成型AIのため、質問者の質問内容に合わせて、ゼロから回答文章を作成するということはできませんでした。あくまで、開発者が作成した回答用リストの中からしか回答の文章を出すことができなかったので、想定外の質問に対してはピントのずれた回答になってしまうという欠点がありました。しかし、文章をAI生成するということは、実際にはブッダが述べていない言葉が人工的に作られてしまうことになります。それがブッダの考えと相反する内容のものであれば、もっともらしく嘘をつく、いわゆるハルシネーションとなってしまうのです。2023年にリリースした新型のブッダボットプラスでは、ブッダの言葉そのものを出力したうえで、ChatGPTの最新モデル(当時はChatGPT-4)で解説を加える形に進化させました。例えば「SNSを始めようと思いますが、どう思いますか」という質問に対して、まずはブッダの言葉として「何ものにも執着せず、余計なものを持たない人が素晴らしい人である」と出力。これだけでは、SNSを始めてよいのか、だめなのかわかりませんよね。そこで、ChatGPT-4によって「SNSを始めるかどうかは個々人の自由ですが、無駄なものに執着せず、必要なものだけを持つことが重要という意味です」という補足的な解説が出力されることで、納得できる答えに近づけることができるようになりました。ブッダの言葉そのものとAI生成の解説を分けて出力することで、ハルシネーションの問題も半分は回避でき、性能を向上させることができました。

新型ブッダボットでの対話例

ーAIと仏教を融合させたテクノロジーが現代人に果たす役割は?

これまでできなかったことを「できる化」する。例えば、お坊さんに会って直接話を聞きたいというニーズに対しては、「直接会いに行く」か「聞くことを諦める」の二択しかなかったわけですが、チャットボットがあれば、直接お坊さんに会えなくても仏教の話を聞くことが可能になります。しかし、睡眠時間を削るほど使い続けると日常生活に支障が出る、あるいはそれに執着して人の話を聞かなくなり、社会性を失うなど、ネガティブな方向に進んでしまう可能性もあります。使い方次第で、心をサポートするものにも、心を破壊するものにもなります。テクノロジーは中立的・両義的なものであり、それそのものには善悪はありません。それをどう使うかが大事です。ブッダボットは、従来の心をサポートするシステムや技術に加えてのオプションになると考えています。これまで存在しなかった選択肢が新たに増えるという意味では、人類の文明や文化の進歩にも繋がっていると思います。

AR(拡張現実)やVR(仮想現実)を用いた仏教仮装世界「テラバース」

ー6月3日に京都府立医科大学附属図書館ホールで開催の特別講演会のタイトルにある「こころテック」「伝統知テック」とは?

心は目に見えないもので、それを可視化するには対人のカウンセリングやコンサルティングを受けるなどの方法があります。心とテクノロジーを融合することで、これまでにはない新しいプロダクトやサービスを創造し、それを享受することで、人々が幸せになれるチャンスが生まれるでしょう。AIによるカウンセリングなどにテクノロジーを活用するのも「こころテック」のひとつ。AIなら、24時間365日いつでもどこでも、安価にカウンセリングが受けられ、対人だと話しにくい、見栄を張って本心と異なる発言をしてしまう、ということもなくストレスフリーで話せるという意見もあります。「伝統知テック」は、伝統知を利用した、あるいは伝統知に関わる技術です。「ブッダボット」はまさに仏教という伝統知とAIというテクノロジーを組み合わせた伝統知テック。講演会では、仏教思想の観点から心の構造を概説し、「こころテック」「伝統知テック」の開発についてご紹介いたします。

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