#8 翻訳家・演劇評論家 松岡和子さん〈後編〉
“シェイクスピアの翻訳は 選択と断念でできている”
1993年(平成5年)よりシェイクスピア戯曲の翻訳に取り組み、28年をかけて37作品すべての翻訳を成し遂げられた松岡和子さん。日本では3人目、女性初の偉業です。その翻訳は数多くのシェイクスピア公演で使用され、『シェイクスピア全集』全33巻として出版されています。本や図書館の思い出、発想の源としての読書<前編>、翻訳で大切にしていること、シェイクスピアへの思い<後編>などをお話しいただきました。
翻訳家・演劇評論家 松岡和子(まつおか・かずこ)
東京医科歯科大学名誉教授。国際演劇評論家協会会員。イギリス文学戯曲の他、小説や評論の翻訳を手がける。シェイクスピア全作の新訳に取り組んでおり、彩の国さいたま芸術劇場での彩の国シェイクスピア・シリーズ企画委員のひとり。2021年にシェイクスピアの戯曲の完訳を達成した。第2回湯浅芳子賞、第58回日本翻訳文化賞、第75回毎日出版文化賞企画部門受賞。
ーシェイクスピア劇の翻訳で大切にしていることは?
私の場合は舞台で使うことが前提です。自分で翻訳する前、客席でたくさんの日本語訳を見て、聞いて、いつも女性の登場人物の言葉遣いがいわゆる女言葉になりすぎているのを不自然に感じていました。英語は日本語のように男性と女性で言葉遣いの違いはない。たとえばロミオとジュリエットは完全に対等。しかし、今まで翻訳してこられたのはほとんどが男性ということもあり、女性は謙譲語を使い、男性に対しては尊敬語を使い、過度にへりくだっているという特徴が見られました。原文通りの関係を重んじて、女性はこうあるべきという日本固有の価値観は入れないこと。それを最初に翻訳する時から決めていました。あとは、シェイクスピアの台詞は、意味のレベルがあり、それにイメージが重なり、音としての面白さが重なっていて、それで一つのフレーズやセンテンスができています。多層的な意味やイメージの中から、どれを選択するかが問題なんです。全部入れられればよいのですが、不可能です。どれを選び、どれを諦めるかは翻訳者によって違います。「翻訳は選択と断念でできている」といつも言っています。諦めるものを少なくしたいに決まってますが、それでは解説になってしまう。なるべく諦めるものを少なく、選び取るものをたくさんにして、自然な日本語にすることを大切にしています。
ー松岡さんにとってシェイクスピアとは?
『逃げても、逃げてもシェイクスピア』(草生亜紀子著・新潮社)が出版されていますが、まさにその通り、逃げても逃げてもシェイクスピアが通せんぼして、必ずそこには『夏の夜の夢』があるという本当に不思議な巡り合わせで、これは運命だと思っています。大学のシェイクスピア研究会で初めて上演したのも、卒業後に入った劇団「雲」の旗揚げ公演で感銘を受けたのも、「新訳をしてくれないか」と演出家の串田和美さんが声をかけてくださったのも『夏の夜の夢』でした。それを蜷川幸雄さんが読んでくださったことがきっかけで蜷川さんの翻訳を担当することに繋がりました。本当に最後は捕まってよかったと思います。ものの考え方や見方、日常生活のあれこれから作品、絵画などの鑑賞の基準もシェイクスピアが土台になってると実感しています。自分でも驚いたのは、夫のがんが宣告された時にハムレットの「覚悟がすべてだ」という言葉が湧いてきたこと。私は常々、シェイクスピアは別に金言や格言を書いたんじゃなくて、あくまでも芝居の台詞を書いたのであって、それを取り出して格言めいたように言うのは違うと思っていたんです。その私が、心が崩れそうな時に「覚悟がすべてだ」という言葉にどれだけ支えられたか。戯曲から取り出しても人の心に響く、人を支えられる言葉をシェイクスピアは作ってきた、私がその証人です。
ー時を超え、国を越えて価値あるものの継承に尽力されていますが、今を未来へ繋ぐためにも人材育成は欠かせないと思います。若い世代へのメッセージをお願いします。
本をたくさん読んでください。シェイクスピアを読んで、その面白さがわかってもらえればそれに越したことはないんですが。私の持論は「黙読は知識になる、音読は体験になる」。ですから、もしも何かのきっかけでシェイクスピアを紐解く機会がおありだったら、黙読じゃなくて、ぜひ声に出して読んでいただきたいですね。「ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」と言うだけで、黙読していたのとは違う気持ちが、心の中から湧いてくると思うんですよ。シェイクスピアの台詞には、普段言わないような表現もあります。例えば、風の強い日に「今日は風が強いね」という会話はしますが、天に向かって「風よ吹け!!」(『リア王』)なんて言わない。でも「風よ吹け!!」といった瞬間に、自分の周りが大きく広がる、経験したことのないような気持ちや雰囲気が生まれてくるはずです。その体験が、物の見方や考え方を変えるヒントに繋がり、人生を豊かにするでしょう。